(追記)この物語は完全なフィクションです。実在の地名人物団体には一切関係ございません。
203X年4月、合掌造りのおにぎり御殿にて
私は、地上4階地下1階、14LDKの合掌造りで人目を惹く御殿に住んでいます。
現地で知り合った妻と2人ぐらしで、もうじき家族は3人になります。
家政婦と執事とを合わせて13人雇い、毎日多忙な日々を送っています。
連日連夜社交界に顔をつなぐためにオペラ観劇や演奏会など私生活も忙しい日々です。
私は日本を飛び出してウィーンで苦節10年、遂にオニギリ屋を成功させて世間をあっといわせることができました。
ウィーン市内に18店舗を構える「おにぎり屋 しょうた」は、もはやウィーンなら3歳の子どもでも知っている有名店になりました。
ミシュランガイドでも一つ星なれども星を頂く栄誉を成し遂げました。
202X年、日本を飛び出してウィーンに降り立つ
それは春桜が満開の時期でした。
私は、映画「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」を見て以来、
価格:1820円 |
ウィーンに行かねばならないとずーーーッと思っていました。
【完全理解】ウィーン移住の流れを徹底解説!費用や方法など
を見て、ウィーンこそ私が住むに相応しい国だと判断しました。
これ以上日本にいても全く上がり身はないどころか朽ち果てていくばかりだと判断しました。
私はかねてより小さくでもいいから自分で商売をする自分の城を持ちたいと思っていました。
しかし、日本ではとてもかなうものではないと思って諦めていました。
テレビを見ていたら、おにぎりが海外でとても人気があると知りました。
私はおにぎりづくりには若干の自信がありました。
そこで、ドイツ語もあいさつ程度しか知らない状態で、行けば何とかなるだろうと考えて、
トランクに詰めるだけの着替えと日用雑貨を詰めて、羽田からウィーンへの片道航空券で機上の人となりました。
ウィーンに降り立ったとき、風はまだ冷たく、東京よりも心なしか寒いようでした。
しかし、これからはもう日本とはお別れなんだ、二度と戻らないんだ、
タラタラやっていては食われちまう、
退路を断ったんだと覚悟を決めました。
当面ゲストハウスに泊めてもらい何とか顔をつなぎました。
ウィーンのゲストハウス
最も魅力的なゲストハウスを見つけましょう
で見つけたゲストハウスに当面滞在することにして、
兎に角も言葉を覚えることに力を入れました。
幸いにも、英語は少しできた私にはすぐ友達が出来ました。
人見知りする方の私でしたが、そんなこと構っていられませんで、
兎に角私は日本から来た、ウィーンにいかねばならないと思ってきた、
そう拙い言葉で伝えたら、
皆さん親切で、私の夢を応援してくれました。
特にスイスのマイエンフェルトから来たというアーデルハイト(仮名)という31歳のブルネットの天然パーマショートボブの鳶色の瞳の女性は、
早稲田大学の理工学部に留学していたとのことで日本語も話せるとのことで、
私のおにぎり屋プロジェクトに大変興味を持ち、できることは協力すると言ってくれました。
ウィーンでそもそもおにぎりに相応しいお米が手に入るのかは、
こんな所にも日本米が売っていた
という記事を見て知ってました。
当然ながら日本のお米は日本で買うよりも割高ですが、おにぎりに加工して付加価値を得ればそれほどの障害にはなりませんでした。
就労ビザもとりあえず取得し、働く場所と住むところもなんとかなりました
アーデルハイトさんが口利きをしてくれた大衆的な感じの気取らない日本料理屋さんのマツオさん(仮名)は、
私の志にいたく感心を持ち、とりあえずの居場所として2階を下宿として住んでもいい、
店を手伝ってくれたら衣食住と多少の時給くらいは出せると言ってくれました。
余り期待はしていませんでしたが、時給はなんと日本円に換算して2,000円というのだから驚きました。
部屋は四畳半一間で、賄いつき三食、
仕事は朝10時から夜9時まで、間に1時間ずつ2回休憩を入れて、休みは火曜と水曜という契約で働き始めました。
慣れない仕事で最初は足手纏いにならぬだけでも精一杯、
懸命についていきました。
粗相をすることも最初はちょいちょいありましたが、
くじけずにやっていた結果、
半年経って秋風が吹くころにはようやく気持ちにゆとりが出始めて、
漸くおにぎり屋開業のためにおにぎりの研究をする余裕が出てきました。
おにぎり研究の日々
ウィーンに来てから7か月経過して11月、
店が午後10時に終わって以降から、厨房を使わせていただいての、
私のおにぎり屋開業の夢のための研究の日々が始まりました。
最初におにぎりの総復習のために日本でおなじみの材料で握りはじめて
マツオさんや、先輩店員のテシマさん(仮名)にも味を見てもらいました。
やはり最初はプロの目は厳しいもので、いろいろとダメだしを貰いました。
ふんわりと握れていない、まだまだ堅い感じだというのがその主なものでした。
そして力加減を覚えるまでには毎日毎日練習しました。
寝る時間も5時間とれれば上出来の日々が続きました。
それでも2年目の春つまりちょうど1年が経過するころには、
ようやっとお客様にお出しできるおにぎりが作れるようになりました。
そして、店の新メニューに私のおにぎりを加えていただけるようになりました。
私のおにぎりは在住日本人の間で話題になる
日本在住のビジネスマンや観光客は、マツオさんの店にひっきりなしに並ぶようになりました。
私のおにぎりが目当てだというのです。
私のおにぎり修業の成果がやっと出始めたということです。
マツオさんは正直驚いていました。
ものになるにはもっとずっと歳月がかかるのに、
私は人の何倍も早くおにぎりを会得して、
店の目玉にしてしまったと。
じきテレビ局が来て取材に来るまでになりました。
地元メディアはいうに及ばず、なんと日本からも。
中国や韓国、アメリカのテレビ局も私のおにぎりを評価してくれました。
そして、なんとあこがれの大ベテラン漫才師も食べに来てくれました。
また、令和の視聴率男たる日本一忙しいあの毒舌司会者も、
私のおにぎりを「いい仕事をしている」と褒めてくれて、立て続けに3個も食べました。
独立、自分の店「おにぎり屋 しょうた」開店
ウィーンにきてからちょうど5年目の春、転機が訪れました。
マツオさんの日本料理屋の常連さんにして、
ウィーンの店舗専門不動産屋社長のヘルマンさん(仮名)が、
私に独立のための店舗を格安で貸すから、おにぎり屋として独立しないかと申し出てきました。
私はもちろん藪から棒のチャンスを逃す手はないと思い、二つ返事でオーケーしました。
そして待望の店舗開業は、6月6日ときまりました。
店舗は実に小ぢんまりしたもの。
「ALWAYS 三丁目の夕日」に登場する茶川商店くらいの小さなものです。
それでも自分の店を持てたということで、大いに張り切りました。
前日の6月5日夕刻、
ゲストハウスでいっしょになり協力してくれた友人たち十数名、
もちろんあのアーデルハイトさんも。
マツオさんもテシマさんも駆けつけて開店を祝って、
おにぎりパーティでこけら落としとなりました。
6月6日開店時は長蛇の列、
1個5ユーロという、日本じゃどう考えてもボッタクリだろうという価格でも、
ウィーンではむしろ割安らしく喜んで皆2個3個と買っていきました。
1000個作ったおにぎりは瞬く間に売り切れました。
その後も連日大盛況、私はついにウィーンでひとかどの成功を収めたのだと実感しました。
日本じゃ絶対にこのような成功はあり得なかったと思いました。
これもすべて、出会う人出会う人みな親身で優しくて、本当に運が良かったからだと思いました。
私はただ、エイヤッと踏ん切りをつけて日本を飛び出す度胸をもって日本を飛び出しただけが私の努力だと思いました。
おにぎりづくりの苦労?そんなものは苦労のうちには入りませんから。
さらに1年、また1年と支店が増える
開店して1年たったころには、ぼつぼつ人を雇いおにぎりの握り方を教えるまでになりました。
現地で雇ったウィーンっ子は、だれもかれも、おにぎりに興味があってきたわけで、
とてもまじめに毎日練習して、すぐにひとかどのおにぎり握り屋さんになりました。
そして、不動産やヘルマンさん、それとヘルマンさんの商売仲間フリッツさん(仮名)の協力のもと、
ウィーン市内に支店を一つまた一つと増やすに至りました。
会社もどんどん大きくなって、ウィーン名物のひとつとして「おにぎり屋 しょうた」の名前は
すっかり定着しました。
そして店舗経営で忙しい中でも、アーデルハイトさんとは暇を見つけてはデートを重ね、
遂にウィーンの土を踏んで7年7ヵ月めの12月24日に入籍しました。
おにぎり御殿を建てて新居となす
アーデルハイトさんとは、結婚後しばらくは1号店の店舗と併設された住居に住んでいました。
しかしながら、ウィーンにきてから9年目の夏、
日本人常連客の商社マンで岐阜県郡上市出身のイワセさん(仮名)からの提案で、
これだけ成功したのだから相応しい御殿を建てないかと言われました。
イワセさんの知人にゼネコンで建設業界に幅が利くヤジマさん(仮名)という手練れがいるのでかれに相談してみると言われました。
そして、ヤジマさんとの話し合いの結果、日本の家屋のなかでも、まだヨーロッパではあまり見られない、
白川郷の合掌造りを模したものはどうだろうという結論に落ち着き、
すこし市街の中心地から離れた場所に、腕利き大工さんたちの手によって、
およそ半年の歳月を要しましたが、費用も日本円で5億円は軽くかかりましたが、
ちょうどウィーンにおりたって丸10年の記念の日に、合掌造りのおにぎり御殿が完成しました。
そして同時に、アーデルハイトさんの懐妊もわかり、二重の喜びと相成りました。
それが、冒頭の「203X年4月、合掌造りのおにぎり御殿にて」の章につながります。
エピローグ、そして、これからも
私は勝者です。
日本にこのままいたら、きっといまも零細の配達員のまま、ぱっとしない人生を送っていたでしょう。
そもそもの、日本を飛び出す勇気をくれたのは、まずひとえに、
海外脱出ネオニート / Tomo-Taro
さまのおかげにほかなりません。
彼は本当に第一番の恩人です。
そうだ、海外脱出ネオニート / Tomo-Taroを
おにぎり御殿に呼ばなくては。
そうそう、あと、森田ようこさんも呼ばなくては。
ともみさんも呼ばなくては。
忙しい忙しい。
つづく
(追記)しつこいようですが、この物語は本当に完全なフィクションです。実在の地名人物団体には本当に一切関係ございません。
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